示威行為の生臭さ

降って湧いた連休を、いくつもの、好意の人の誘いを断って過ごす、ひたすら断って過ごす。


雨がやんでだらだらと傘を引きずりながら歩いていると、足下にひときわ目立つオオミズアオが倒れていた。羽の裾をボロボロにして地面へ張り付いていた。曇り空が落とす青っぽい光線の景色の中で、羽の翡翠色が目立って鮮やかで、死んだ神様のようだった。
それ以降気をつけてみてみるとあちらこちらに引き千切れたオオミズアオが倒れている。わたしの通う学校の敷地はどうやらオオミズアオの群れて棲むところらしい。幼虫は、並木になっているケヤキの葉によって育つのだろうか。そうだとしたらあの死体の多さも納得がゆく、それほど頻繁に無残な死体を見かける。わざと何かがいたぶって殺しているのかと思うくらい。死体がある、ということは、生きている体だってあるということだ。あの大きくて優美な蛾の、完全な体のやつだっているはずだ。
あんなに目につく鮮やかな体でいったいどこへ身を隠すのか、不思議に思うけれど生きているものを未だ見ない。紫陽花の繁みを掻き分け、並木の幹を舐めるように見まわすけれど見当たらない。不思議だ。
とはいえ、あんな他愛なく崩れそうな、水にも風にも弱そうな羽で、奴らが野生に生活するのがまず不自然で、死んでいる方が自然かとも思う。ジュディ・オング小林幸子が、野生に生きようとするようなものだ。そう思うと、あの薄い色の羽が一層いかにも弱そうだ。さわり心地の良さそうな、毛の生えた体が弱そうだ。いっそう生きているところが見たい、見たことがないわけではないけれど。蛾はたいてい騒がしい飛び方をする。だけれどあれだけは優美に飛ぶのじゃなかろうか、大きい羽に空気の抵抗をたっぷり集めて、病気のように飛ぶのじゃないだろうか、それをいっぺん見てみたい。