月収22万円新聞

ざまあみろ、と、わたしは言ってやるんだ。
ざまあみろ、きちんと、ひとりで生活できるくらいの金を稼げる24才になってやったぞ、と。
わたしをキチガイだと言ったひとたち、
社会に出るのは無理でしょうと言った精神科の先生、
大人になるまで生き延びられないだろうと思った17才のわたし。
ざまあみろ、わたしの心配は目下今日のランチの値段をいかに抑えるかだ。


ざまあみやがれ、と、わたしは思う。
ざまあみやがれ、つまんない大人になって生き延びちゃったよ、と。
わたしの感性は鋭いって好いてくれたひとたち、
きみは文章を書くべきだっていってくれた大学の友人、
「健常者」への共感を一切拒否していた痩せっぽっちの美しかったわたし。
ざまあみやがれ、満員電車も睡眠不足も対人関係も辛いときはあってももう死ぬことを考えるほどじゃない。


ずっと、継続してゆく閉じた関係が苦手だった。
仕事でも、学校のクラスも。
なぜならわたしの人生は、本来、「こんなところ」には無いはずだから。
だけど、そんなわたしでも、こうやって、諦められちゃうんだ。


また、恋人と別れそうだ。
白状すると、わたしはいまも最初の恋人の爪の短い手指の先を、未だにときどきは思い出して心を慰めている。
もう、誰かをあんなに好きになって、あんな気持ちで手を繋ぐことはないだろうと。
それで、あんな風に楽しく幸福に過ごすことはないだろうと。
(当然、美化は入っているんだろうが。辛いことだって多かったし終わって過ぎ去ったことはいかようにも言える)
とにかく、運命の恋人みたいなひとは少なくとももういないだろう。運命でもないことを運命と、必然と思い込めるほど、若くもない。
だから、だれでもいい。
だれでもいいから、結局別れちゃう。別れて、恋人がほしいならまた別の誰かと付き合えばいい。
わたしはわたしを幸せにしたい。
わたしが好きなわたしを幸せにしてくれるひとを探してる。
愛も運命も後付けのエピソードだ。
今回だってすこしはあった。
もう男のひとと付き合うのなんてやめちゃおうかな。


楽しいことがたくさんあって、そのために生きてる。死ぬのはけっこうめんどくさい。わたしはまたすこし太った。
強くなればなるほど茫漠とした気持ちになる。
虚しい気持ちになる。
嫌でもひとつひとつ強くなる。
わたしは幸せになりたい。
いますぐ幸せになりたい。
いますぐわたしを幸せにしたい。


夏が好きだからはやく夏になれ。ビール飲んだら鬱にもなれない。

髪をやさしく撫でて、やさしく抱きしめてくれるようなひとをずっと探している。
そうされて私のこころが満たされるようなことがあるとすれば、それは生身の人間ではなくて、わたしも生身の人間ではなくなった時だろう。
私の髪だって実際、ごわごわしてひっかかるし。


やっぱりわたしは気狂いなのではないかと、思う、
執着してきたものを、急に未練もなく放り出したくなってしまう。
今月に入って、部屋のものを45Lのごみ袋に10袋は捨てた。
なにも要らないような気がする。
べつにすべて捨ててしまってもいい気がする。
過去を、ぽーんと手放してしまいたい。
もっと言えば現在も放り出してしまいたい。
樋口一葉にごりえ」の一節ばかりをさいきんは思い出す。ああいやだいやだ、人生がこれか、これが人生か、このまますべてを放り出して唐天竺の果てまでもいってしまいたい。あの丸木橋を、おじいさまも踏み返して落ちた、父さまも踏み返して落ちた。わたしもいずれ渡らねばならぬのだろう、とかなんとかそういう内容のあたり、そして、わたしも「出世を望む」ように見えたりするのだろう)
わたしは、自分の人生も簡単に手放してしまいたい気がする。
昔のように鬱々とするわけではなくて、こんなちっぽけなものから自由になりたいというだけのことで。


色々なことができるようになった。
人生をただ生きられるようになった。
生活ができるようになった。
魂が身体を離れて、ここにはない何かに考えを及ばすようなこともなくなった。
色々なことができるようになればなるほど、どうしてこうも人生が茫漠として感じられるのだろう。
どうして生身の人生とはこんなにつまらないのだろう。
ああ、つまらない。くだらない。人生がこれか。これが人生か。

はこには

好きな相手の左頬には小さく連なったほくろがある。
それに気が付いたのは顔を近づけるような付き合いになってからだ。
わたしはそれを星座に似ていると思う。
ほくろに意味は無い。だからわたしの星座にしたっていいはずだ。
(もっと言えば星座にだって意味はない。星に意味はない。星は在るだけだ。)
わたしの左腕に平行に走るいくつもの白っぽい皮膚の突っ張りを嫌う人も世の中けっこういるだろう。
だけどたとえばそれがわたしにはもう見慣れた身体の一部という存在だからそれこそほくろみたいなものだ。
過去に意味はない。
傷跡に意味はない。
そしてすべてのものに意味があり、すべてのものに意味がない。

世の中のすべてのもの、つまりすべての無意味なものに自分で意味付けして自分だけの箱庭で生きてゆきたい。
無意味なものが好きだよ。用意された意味はあんま面白くない。
イルミネーションも観覧車もそれだけではロマンチックでなんてなくてただ電気が無駄なだけだ。木も熱そうだし。
そういう他愛ないものをみてもつまらなくなくて、はしゃげるような相手といるってことをみんな祝っているってこと。
無意味なものが好きだよ。
すべてに意味づけできるわたしは神様だよ。
わたしを幸福にできる神様はわたしだけだよ。
わたしを幸福にする神様のわたしを、わたしは大好きだよ。

アイドル

ときどきあたまの中で、17才のときの友だちのことを考える。話しかける。
もう彼の声も言葉も覚えていないのに。
もっと言えば顔なんて直接みたことさえ無い。
この場所でやりとりしていた友だち。
しゅうちゃん、きみがいたらなんて言うの?
本当は今もどこかで生きていて、わたしのこんな感傷とは離れたかたちで、普通に大人になって、暮らしているんじゃないの?
8年経つ。
彼の初めての恋人だった女の子は結婚して新しい家族を作っている。
想像もつかない話だろうけれど、外側から見ればそんなに酷くもないようなそれぞれの状況のなかで、何人かが死んでいった。
10代の終わりはそういう季節だった。(ヒロくんは23才だったけれど)
23才になったわたしはもうどうやって生き延びようかと考えることはない。
どうやってこの先を生きてゆくかを考えている。
「心配しなくてもいいよ、あたしがいうことは確かだから。」

東急電鉄の渋谷駅には天下の渋谷駅構内であるというのにひとの全くいないだだっ広い空間がある。ひとの行き交う表通りをちょっと入ったところだ。もちろん立ち入り禁止の区域などではなくて、立派な公共空間なのだけれど、拡張されたばかりのダンジョンのような袋小路で、実際そんなものだから誰も知らないのだと思う。行く必要もないし。
近頃は、よくそこでひとを待っている。たくさんの乗客が電車を待つ東横線のホームを眺めながら、ガラスに映る自分をみながらイヤホンで音楽を聴いて踊っている。踊りながらひとを待っている。
東京の夜の「キツ」さに飽き飽きして息が詰まっていた半年前までとは大違いだ。自分の身体は自由なのだと知った。踊る方法を覚えてなにを聴いてもいまは楽しい。前髪を揃えてるような若い女の子を食い物にしてるやつらは死ねばいいのに。そういう消費のされ方してると「キツ」い。年齢を重ねれば自分は無価値に帰すのだと思っているし、支持者との共依存的な甘えた関係のなかにしか自分を見出していけないから、それが「キツ」い。いま必要なのは「ライオットガール」だ、という話があって、それがなんなのかわたしは言葉の定義とかわからないけれど、近頃良く会う同性の友人や演者をみているとわかる気がする。自分を元気よく見せようとアイラインをビッと引いてる、毎日。自分の身体が自由になっていまはなんでも踊れる、無価値になることを恐れず元気よく生きてる、だって最初から何者でもなかったし何者かになろうとする必要ももうないから。
皆さん、長生きしましょう。

なんでそんなオルタナキッズみたいなズボンはいてるんですか?

オーディオの好きなひとが、スピーカーによる音の再現性のちがいについて話をしてくれた。
わたしにとってはちんぷんかんぷんだったし、実際そういう顔をしていたらしくて、興味なさそうですね、と言われてしまったけれど、概念がちょっと理解しづらくて考えてただけなんだ。
たとえば拍手の音のようなものは、現実で、実際に鳴っている音のように鳴らすことというのはなかなか難しいんだそうだ(音の立ち上がりがなんとか、と言ってたけどそういうのよくわからないや)。わたしは、じゃあここでいまわたしが拍手をするのが、どんな高級なスピーカー使うよりいい音なんですね?というような無粋ともとれることを言ったと思う。
それからずっとそのことを考えてた。
かなりおおざっぱにまとめてしまえば、要は彼の言っていることは、媒体を通すと情報は濁ったり変化したりするということなんだなと。わたしはそういうことよく考えていて、季節を、どれだけ都合よく記憶するための言葉にできるか、そういうのときっと同じことなんだな、と、思った。
それから媒体を通した情報というのは、ナマの情報そのものにかなわないんだということも。メールで言葉を交わすより電話で、電話で言葉を交わすより生身で会って話すことには、どれだけの膨大な情報量の違いがあるか。相手の瞬き、服のくたびれかた、声の響き、そうだその声の響きだって実際にきくのと電話できくのとでは全然違うんだ。
だからいまあなたとこうして現実のあなたと顔つきあわせて会っているんですよ、と言えばよかった。