東急電鉄の渋谷駅には天下の渋谷駅構内であるというのにひとの全くいないだだっ広い空間がある。ひとの行き交う表通りをちょっと入ったところだ。もちろん立ち入り禁止の区域などではなくて、立派な公共空間なのだけれど、拡張されたばかりのダンジョンのような袋小路で、実際そんなものだから誰も知らないのだと思う。行く必要もないし。
近頃は、よくそこでひとを待っている。たくさんの乗客が電車を待つ東横線のホームを眺めながら、ガラスに映る自分をみながらイヤホンで音楽を聴いて踊っている。踊りながらひとを待っている。
東京の夜の「キツ」さに飽き飽きして息が詰まっていた半年前までとは大違いだ。自分の身体は自由なのだと知った。踊る方法を覚えてなにを聴いてもいまは楽しい。前髪を揃えてるような若い女の子を食い物にしてるやつらは死ねばいいのに。そういう消費のされ方してると「キツ」い。年齢を重ねれば自分は無価値に帰すのだと思っているし、支持者との共依存的な甘えた関係のなかにしか自分を見出していけないから、それが「キツ」い。いま必要なのは「ライオットガール」だ、という話があって、それがなんなのかわたしは言葉の定義とかわからないけれど、近頃良く会う同性の友人や演者をみているとわかる気がする。自分を元気よく見せようとアイラインをビッと引いてる、毎日。自分の身体が自由になっていまはなんでも踊れる、無価値になることを恐れず元気よく生きてる、だって最初から何者でもなかったし何者かになろうとする必要ももうないから。
皆さん、長生きしましょう。