出来が悪い

本の内容は机上の空論でしかない。だからこそ現実以上を感じるし、ときには生活にとって意味がないとも思う。
小説では、得られる情報が限られているからこそ情景のすべてにピントがあってしまう。その感じの方が現実よりも現実らしく身に迫る。(きっと子供のころ、運動ができないので本を読んでいたせいだ。十分に身体の感覚が育まれなかったせいだ。)
この間、高校生の男の子たちが本気でスポーツの試合をしているのをみる機会があった。彼らが、彼らの人生のうちで、おそらくもっとも健康な肉体をもって運動するのを間近にみることは、栄養ドリンクを一気にぐいと飲まされて鼻血がぶーとでるような体験だった。わたしにあれほど運動ができたなら、たぶん本など読みはしない。あれだけ自分の身体に感覚を一瞬に張り巡らすようなことができるなら、決して本など読まない。たぶんわたしは衝動的であるだけで、その衝動を運動で解消できないので、時間をかけて消化しているだけだ。幼稚園生のころ、周りのこどもがこぞってボールをとりあってはつくので、楽しいのかと思ってやってみても、うまくできないうえに、なにも面白くないので、やめてしまったこどもだった。ちいさなこどもは、たぶん身体の感覚が遠い。(だって身体感覚は習得的だー)
経験(時間や、感覚)はいくらでも延長することができるし、いくらでも凝縮することができる。夢の中の一瞬の体験を人に語るのには、多くの言葉とそれを口にするだけの時間が必要で、そこでは時間がひきのばされているといっていい。けれどそれを絵にしてしまえば伝わるのには一瞬で済む、そこで時間は凝縮される。もちろん前者においても後者においても情報はそれぞれ抜け落ちてしまっていて、完全に伝わることなどあり得ない。何かを完全に模写して存在させることはできない。ただそこに存在するという、それだけのことを越えることはできない。


本を読むのに時間がかかってたまらないから、速読法がやってみたい、ということが書きたかったのに。
死ぬまでにどれだけ本が読めるだろう。