コーヒーの味を好きになったこと自体が少女時代の明らかな終わりだ。古い安アパートのような部室棟の自販機で温かい缶コーヒーを買って手を暖めながらタバコを吸う、友達とは二人なら不幸話をしないでも安心して話していられる、取り留めもない馬鹿話が口をついて、高校時代に毛嫌いしていた大学生らしい大きな声の笑い声をあげ、冷たく甘い空気の中で身を縮こまらせて吸うメンソールのタバコは美味い。手洗い場には飲み捨てられた空き缶がいくつも並んで、それが灰皿代わりになる。

そうしながらいつも自分は自分の姿を文章にして組み立てている、こんな風景を自分はいつまでも記憶していられるのだろうかと思うからだ、言葉にすることで景色はその色を削がれるだろうが、それでもそのような日々を忘れてしまうことの方がずっとこわい。高校時代から自分の周りには学生時代をひきずりつづけている年上のひとたちばかりがいて、年下の厄介な子供だったわたしにできることはその感傷を一手に背負うことだったと思う。これは予言されたような日々で、いつか思い出すためにある、他人にも、そういう記憶として自分は留まりたい。それでいつも痛々しくなってしまう。こんな日々はいつまでも続かない。感傷でひとの味覚は変わる。コーヒーを美味いと思うようになったのは去年の冬からだ。缶コーヒーと煙草、授業の後に待ち合わせて一杯の酒やコーヒーで何時間も議論すること、どうでもいいなぜんぶ。個人の感傷は他人にとって無意味だ。だけれど、他人の、普遍的でない風景こそが、他人に想起をさせることもあるとわたしは信じている。ただ自分の感傷を景色にしないで歌うことは醜い。あるのは景色だけでいい。今朝は自分が一度だけしたライブを自分で見る、という悪夢にうなされた。景色にならない感傷を歌った最低の演奏だった。この女に一刻も早く目の前から消えて欲しかった。寝つく前も金縛りにあうやら頭の中でうるさい女に延々話しかけられ最悪の眠りだった。知人のライブを録音したものを近ごろは繰り返し繰り返し暗記してしまうほど聴いていて、それにすこしだけ入っている自分の鈍重な声に殺意を覚えながら聴いていたせいだとおもう。こんなことは誰にだってあることだ。それくらいよくあることだ。どうでもいい。痛々しくても自分が記憶に留まればいい。最後には景色だけが残る。
ほんとうにこのごろはマズい。いつでも死ぬことができると思う。だから躁状態のようになにもかもにぽんぽん手を出している。登山をしたり薬を飲んだり髪を切ったりバイトを辞めたり。小説を書いているのでこうして日記など書いてリハビリをしているけれど、小説となると、普段から読むだけでも空間構成を理解できない頭をしているので状況描写がわけのわからないことになってしまう。なにも残さずには死ぬまいよ。抽象的なことをかたる分には良いのだけれど。あんまりこれはよくない文章。