エスプリ

ただボールをつくことさえも、うまくできなかった幼稚園生のころからわかっていたことではあるけれど、わたしはどうやら少なからず鈍い。心の動きと体の反応が一致しない。いまだって、ボールの行き先に歓声をあげる女の子たちについてゆくことができない。状況を理解して、感覚を身の内であらためているうちに遅れを取ってしまって、そのときにはもうボールはただ地面に転がっているだけだ。心が動いてもそれをそのままに体に表すことができていない。
だから今訓練をしている。周囲に人がいないとき、あるいは聞いてくれる相手がいるときに、なんでも受け取った感覚をすぐ口に出す練習。それもだいたい嘘くさくなってしまって、わざとらしさに馬鹿馬鹿しくなってしまってすぐやめてしまう。歌いながら歩くことと、ストレスを逃がすための動きならいくらでも自然にできるというのに。だいたいから、こうしたことを思いついたのは、強いストレスに出会ったときに頭で考えていない言葉を口にしてしまうことがしょっちゅうあるからであったのに。反応を作為的に生成しようとするからいけないのだろうけれど。

ひとりで、自分のためにしゃべることを試してゆく中での発見
・自分しか聞いていないのだから、説明する必要はない(自分に自分で説明じみたことを言ってしまうと、漫画の説明台詞のようになってしまう)
・その場の言葉で一瞬を引き延ばしてはいけない
・言葉を口にするのには数秒かかってしまう
・感情的は外部を意識したものだ

戸川純が「樹液すする、私は虫の女」という本の中で、部屋を出てゆくひとの、捨て台詞のようなものに対して、高速で返す歌があればいいのに、というようなことを書いている。わたしも、ひとりでしゃべっているとき、高速で口をつく言葉があればいいのに、と思う。言葉は一瞬を引き延ばしてしまう。ひとりでしゃべるとき、それは必要がない。
平安時代の貴族が、感情が昂ると歌を詠んだようにしゃべりたい。書きとめられることを必要としない言葉を。それは歌になるのかもしれない。