世界はわたしの蚊帳のそと

読み始めることは何度目かではあるのだけど、今日から改めて読み始めた『うたかたの日々』は、古い本の印刷によくあるもので、印字がひとつひとつ紙にインクと形を押し付けられていて、指先でも読めるような明朝体だった。95年発行の本で、初版は79年と奥付にあった。このような印刷のしかたについている名前を、わたしは知らない。


花粉のせいで、目玉が死んだ魚の肌のように黄色く血管を走らせぬらぬらひかっている。4時頃目を覚まして、6時まで眠れなかったのも原因かもしれない。ここ数日、目のあたりをこすり過ぎてわたしの瞼は急に二重になった。二重瞼より一重瞼の方が、わたしの場合は似合っていてかえってセクシーだな、と、ちかごろやっと思うようになったのにも関わらず、だ。知っているひとに、見ようによってはカエルのように瞼の膨らんでいる女のひとがいるのだけど、そういう方が妖しく、魅力的である。好みの問題かもしれない。両生類的な顔をしている女の子がとても好きだ。ウーパールーパーとか、サンショウウオとか、イモリとかに似ているような女の子。爬虫類はすこし気が強そうでいけない。いつでも生臭い粘液で肌を濡らしているような女のひとがいい。卑猥な感じだな。
不安定なものの方が魅力的だ、360度ばっちりのぴちぴちギャルちゃんよりも、角度やちょっとした状況によって妙に色っぽくなる、ちょっと野暮ったいくらいの女の子がセクシー。そして不健康ならなおいいな、退廃が好きなのかもしれない。


他人の言葉の力を借りてしか話すことができないわたしにとって、これまで世界は自分の蚊帳のそとだった。
それが今日にも今にも身に降りかかってくる。
わたしはもう充分に若くない。わたしはまだ充分に老いていない。そうして14も過ぎ15も過ぎ16も過ぎ、そしてこの17も過ぎて・・・・・・と思うとたまらない気持ちになる。わたしはきっと今より体力がなくなれば完全に考えることをやめてしまうだろう。
わざと考えておかない、あるいは、わざと遊びの幅を持たせてその空白を他人の想像力に任せる、というのはfに教わった方法で、それを用いれば世の中はそれまでのわたしの見方で生きてゆくより3倍は生き易い。fはかつて恋愛関係でいまでは最も信頼のおける友人で、同じではないけれど近いものを持っている人間だから非常に貴重だ。むやみやたらに同調しないのが彼の特に賢いところで、一目も二目も置いている。そして彼はわたしより12年余計に生きている。

今しようとしていることを考えると、飼っていたイモリのことを考える。イモリとヤモリの区別のつかないひとがよくいるけれど、井戸を守る、と書いてイモリ、家を守る、と書いてヤモリ、という説明をすればもう二度と間違えないでしょう。それで、わたしの家では小学生のころからいままで、ずっとイモリを飼っていて、小学校の夏休みに旅行へいって、帰ってきたら、その飼っていたイモリが一匹、環境も待遇もいい水槽から脱走して、絨毯敷きの居間の真ん中で力尽き、干からびていたことがあった。わたしは今そういうことをしようとしている。そういうことをしたい、という気持ちはずっとあって、それでも環境も待遇もいいところはわたしにとって充分魅力的だ。
新しい方面へ進もうとするといつも足下をすくわれてしまう。それではいけない。もう何度か打ちのめされておきたいの。もしもそれで死んでも後悔ないわ。きっと苦しいけど。