集中と拡散

頭の中でどんなに深遠なことを考えていたとしてもそれが現実の生身の自分に作用していなければ無意味だ。
世界とわたしの境界はどこにあるのだろうと考えることがよくある。
わたしは生まれつきアトピー体質であるので、冬場はいつも体中の皮膚が乾燥して、白い粉のようになって剥がれていて痒かった。それは小学校高学年あたりからだいぶ改善されて、見た目にもまったく気にならないようになってきたのであるけれども、いまだに冬場、特にストレスを強く感じながら試験を受けているようなとき、頭を掻くと粉チーズにも似たフケが頭から落ちる。
それで、今よりも症状のひどかった小さなころ、自分の体をみていて思ったのが、こんなに皮膚が死んで剥がれてまた生まれてしていて、わたしの明確に定まった境界というのはどこなのだろう、ということだった。わたしに中心、揺るぎない部分などなくて、細胞は常に生まれ変わって死んで外気と入りまじり、明確な境界なんてないんだ、そう思ってわたしはとてもこわかった。
しかし、それを考えたところで、その考えはわたしの実生活に作用を及ぼさなかった。わたしが自分に明確な境界があることを知っていようと知っていまいと生活は変わらなかった。だからそこで考えることをやめた。放棄した。たとえ自分が剥いても剥いても皮ばかりのタマネギ、ラッキョウのような存在であったとしても、自分はこれまでもそうだったのであり、これからもそのまま生活し続けるほかない。
自分に衝撃を与える考えは今日にいたるまでいくつもあった。根拠を示すのが面倒なのでわたしが考えつくした結果だけを書き連ねていくと、自分の感覚と他人の感覚は決して比べることができないし同じ概念の中にあってもまったく違うものであるのかもしれない、であるとか、集中してゆけばゆくほど拡散してゆくのだとか、まあこれだけ書いてもわけのわからないような代物ではあるのだけれどわたしは、そういった衝撃に揺らいでじたばたとその後の生き方を変えようとは思わなかった。それは実生活に即していないからだ。わたしの生きている現実世界に持ち込むことができなかったから。だから考えることをやめた。
未だにぐにゃぐにゃとしょうもない考え事をすることはあるし、そうしてそれ以上考えることをやめた事象についてもそれはわたしのからだのなかにきちんと残っていて、いまでもこうして繰り返し持ち出されこねくりまわされるのだけど、そういうことを考えている自分が特別だと思ってしまう人間がいて、実生活に即さない机上の空論とでもいうべきものを振り回して、社会に対応できなかったりして卑屈に文句をたれたりするのって、本当にきらいだ。それはとても醜い。


途中から何をテーマにしていたのか忘れてしまったレポートみたいになってしまった。要は社会に対応できなくて文句垂れてる癖に自分は高尚な人間だって思っているやつって陰湿でいやだな。いやよねー。いやん。という話。わたしもですけど。この年頃らしいでしょう。
言葉をつかって誤解なく物事を伝えることは不可能だと思っているけれど、最近は誤解を生みそうな文章ばかり書いてしまう。自分で述べている根拠の説明に納得がゆかないとでもいうか。