愛しいもの

部屋の中の波打ち際で桜貝をいくつかみつける。
桜貝は健やかな女の子の爪のような色と光り方をしていた。
この部屋にはたくさんのものが流れ着いて去ってゆかない。
わたしはぐずぐずと暖かい布団の中で羽化しない蛹になり腐ってゆき、やがて誰にも見向きされなくなる日が来て、その日あなたがやってくるという妄想をする。腐りかけの濡れた羽を引きずって地面を這うだろうことを考える。


傷のいくつかは出来る限り大切に綿にくるんでとっておいてあとから哀れぶって痛みを撫ぜたい。自分の感情のすべてが愛しくて大切だ。自分の傷も膿も傷痕もすべて愛しい。発露させなければ誰にも知られることなく死んでゆく言葉や考えや思い出。そのさみしさも愛しい。わたしが死んでしまえばわたしだけが知っていることはみんな無かったことに起こらなかったことになってしまう。(たとえば、中学生の夏の日道端で小鳥のヒナがひからびて死んでいたのを公園の植え込みにそっと置いてやったこと。わたしが首をくくってしまえば誰も知らないそんな事実はなかったことになってしまう。)
わたしたちの体の中にある膨大な世界と情報は記憶ではなく事実の記憶で、それでもわたしたちが何か覚えているような気がしてしまうのは感覚というのがほんのすこしだけ残っているからだ。記憶の影だけを追って苦しんだり泣いたりするのは賢明ではないけれど賢くないわたしはとっておいた傷の膿んだにおいが愛しくてたまらない。だからいつまでも足の親指をひきずっている。