「あった、これが僕の宝物だよ」


髪の毛を抜き続ける日々。
夕方、「ぼくたちの失敗」を、ぼそぼそと小さな声で森田童子の真似をしながら歌って歩いた。人気のない住宅街には金木犀の匂いが冷たく満ちていて、どうやら秋で、ただそれだけだった。もう長いこと空き地になっている場所に、セイタカアワダチソウのきいろい花がたくさん咲いていて、わたしは、いつの間にか、ハルナや山田くんや吉川こずえやそのほかのひとたち*1と同じ年齢になってしまったという絶望的なことに気がついてしまった。どうやらわたしにはなんにも起こりそうにない。その証拠にわたしの連れている犬は足元で嬉しげにしているだけで、どこかしげみの中から死体をみつけてきてはくれそうになくて、頭の悪そうな顔をして舌をだしている頭を撫でてやった。お前もそれくらい面白いことができたらいいのにね。
そろそろ冷たい空気が自分の輪郭をはっきりさせ始めて、空があんまり暗くて広くて、日の翳った海の中にいるように寂しかった。わたしがここでこうしていることを誰も知らなくて、ジャージで犬を連れて神奈川の造成地で寝起きの頭のままひとり泣いているわたしの惨めさは、セイタカアワダチソウのおいしげる河原にひとりぼっちで横たわる死体と同じようだった。
ブツブツと、ひび割れてなるものか、と小さく叫ぶのはこのごろのわたしのおまじないのようになっている。ひび割れてなんかやるものか。おまえらなんかに負けてやるものか。びょういんにゆきおくすりをもらえばへいきにのうのうと生きられるのだろうか。少なくとも別れてしまったひとといれば毎日安定していられるのは確かだった。今だって必要な安定の分だけ頼ってしまっている。なんてことだ。だけど安定してしまうことほど恐ろしいことも他にない。
散歩から帰って蚊取り線香をモクモクと焚いてもう暗い中アネモネの球根を植え、ストロベリートーチという花の種を蒔いた。ストロベリートーチというのは無闇に増える植物らしい。母親は庭全体の色を統一したいといって、わたしにそれを鉢に蒔かせたけど、わたしは母親のみていないところでそれを庭の地面にバラバラと適当に蒔いた。これがうまくいって白や青い花ばかりで揃えた花壇に真っ赤なロウソクの炎のような花が咲いて蔓延ったらいい、と思って暗い中でニヤニヤとした。来年や再来年やもっと先、わたしがどんなになっていても実家の庭に花が咲く。ニヤニヤしながらまた涙がでそうになった。
わたしはたぶん頭が悪い。
なにをやっているんだろう。どこか、どこかという場所があると思ったのに。
痛みは見ている分には美しいようにも思われるけれど苛まれる方はたまったものじゃない。切れば痛いし本当に血は出るんだから。手首を切っていることはこの間の体育祭で絆創膏をもらいに行ったので保健室の先生に知れてしまっているから、下手したら担任の方にもお話、なんてことになっていることも考えられる。中学生のときは友達に引っ張られて保健室につれてゆかれ左手首を先生に御開帳、あとで放送で保健室まで呼び出されて「大丈夫?」と訊かれたことがあって、友達と先生のそのやさしいフリルのついた暴力にすこし傷ついた。
大丈夫?と聞かれてもへらへら笑うことしかできない。へへへ、大丈夫ですよ、とか言って。この間だってそうだった。本当は胸が押し潰れそうなんです、毎日胃が痛くて参ってしまいます、なんて、言っても可愛らしくいられるみかけでない。できるだけ周りのひとたちを笑わせたい、楽しくさせたい、なんておこがましいことを思っておどけて、実際のところどうかはわからないけど空回っているような気がして落ち込んでしまって、その繰り返し、空元気はいつか乾いた音を立てて割れる。
子供のように笑うなんて、誰かの前以外では恥ずかしくてできない。

*1:岡崎京子リバーズ・エッジ」の登場人物。