寄せ書きというのは素直な送 別の言葉が主であろうとは思うけれど、その裏からいやなにおいをさせているものはたぶん少なからずあって、感傷的な気持からではなくじっくりと読むことが避けられる。自分は8ヶ月、使えなく、人に馴染まないアルバイトであった、といううしろめたさがそうさせている。素直になりたい、と意識すれば意識するほどそのために素直でなくなる。素直になることより自信をつけることがわたしには必要なのだろう。うしろめたさがなくなればたぶんそのうちに開けてくる。
とはいえ、自分が色紙や餞別の品まで贈られるとは考えもしなかった。文庫カバー、新書カバーは非常に重宝で、文庫カバーは方々でいただくので家に複数あるけれど、これで大っぴらにしたくないようなタイトルの新書であっても移動中に読めよう、と嬉しい。うまくゆかなかった方に誕生日いただいたのも文庫カバーだった。そのひとが色 紙に書いていた文章の言葉づかいにすこし笑う。ここいまだにみているのかしら。
わたしの言葉はいまのところ日常を語るためだけにあって、加えてこの頃では自分の内的な貧しさにうちのめされて小説を書こうなどという気持ちも毛頭なくなってしまった。けれどわたしには自由になるものが言葉しかない。いまのところ最も手足のように自由になるものは言葉で、そのために表現系の文芸学部で偏差値のあまり高くないところなどを志望している。とはいってもわたしのとりあえずの目標はとりあえずの就職、貯金、古本屋を開業し猫を飼うことなので、就職のことを考えると、それほど自分の意思にそれないところで国文学科系で偏差値のそれなりのところへの進学が無難と思われて悩まされる。肉体的魅力あるいはもうすこし鋭く聡明な感覚さえあればタマノコシを狙おうものを。女の生きるのはとても難しい。どう生きる。
なくしたと思っていた「悲しみよこんにちは」の古い文庫本がカバンの中からみつかって嬉しい。まんべんなく色焼けし、手擦れし垢じみているのに、乱暴に扱われた形跡なく古びているこの本は郵便局のリサイクル図書コーナーで拾ってきたもので、終戦の十年後の発行だった。こういった本こそいとおしく大切に読みたくなる。ていねいに時を経てきた本は汚くともやさしい。背表紙のバーコードのあたりにぺたぺたと糊の跡のある本はかなしい。何度も値段が重ねて貼られている本はとてもかなしい。戻ってきてね、と口々に言われたけれど、それだからあのアルバイトにはあまり戻りたくない。
長い文章は乱れの徴候。