セーラームーンの思い出

小さなころのことで、ひとつ、よく思い出す出来事がある。
わたしはまだたぶん幼稚園にも入っていない時分、同じくらいの歳の子供たちがたくさんいて遊んだりしているところでの出来事だった。
たぶん、幼稚園受験のための保育園のようなところだったのだろう。ただ、わたしは、新宿御苑の保育園に受験のために通っていたことがあって、そのときのことも少しは覚えているのだけど、どうやらそことは様子の違う場所であったように思う。
あまり良くない思い出なので、それがどこだったのかを母親に聞いてみる気はしない。
とにかくわたしは同じくらいの歳のこどもたちといて、女の子たちが楽しそうにセーラームーンごっこをしている。その中のリーダー格で、仕切り屋の女の子とわたしは、そのセーラームーンごっこを始めるときに喧嘩をした。わたしもその子も、同じ役をやりたかった。それで、わたしは結局仲間外れにされたのだけど、やっぱりわたしはその遊びに入りたくて、「いれて」というのだけれど、わたしの存在はみんなにまったく無視された。わたしはそれでもまだ諦めないで、「わたしがセーラームーンよ!」と高いところに立って言うのだけど、だれにもいれてもらえなかった。しばらく無理矢理に割り込んで遊びに入れてもらおうとしたけれど、やはりいれてはもらえなくて、仕方なくひとりで、セーラームーンの真似をしていた。
その日の帰り道、停留所でバスを待っているとき、母親にそのことを話すと、母親は、リーダーの女の子について、「●●ちゃんは、きっと弟ができたばかりだから、とられたくないと思ったんじゃないかしら」という、わけのわからない返事をして、わたしはおかしいな、よくわからないな、と思った。
覚えているのはそれだけで、ほとんど記憶も搾りかすのようになってしまっているけれど、このことはいまでも忘れることができない。とはいっても、もう随分昔の話でわたしは多分に記憶を改編してしまっていて、本当は、母親が言った言葉は、もっと違ったことだったかもしれないし、そのごっこ遊びに、わたしはもしかしたら最終的に参加したかもしれない。ただ、たとえいくらかは作り物になってしまっていたとしても、このときに味わったさみしい気持ちを、いまでも忘れる事が出来ない。そして、わたしはこのことから、幼稚園時代からひとりでずっと本を読んでいるようなこどもになった、という可能性も考えられなくもない。仲間に入らなければ、仲間から外されないから。
いまでも、この思い出の中でのことほどはっきりとはしていなくとも、似たような状況と感情に繰り返し出会う。その度にこのことを思い出す。その都度わたしは、思い出の中でひとりぼっちのセーラームーンになる。それはとてもさみしい。わたしはいまでも思う。本当は、歓声をあげて、女の子たちと走り回りたい。だから、お願いだからそこにいれてよ、と。


わたしはいつも負けてばかりだ。
いちいちのことにとらわれてあたまでっかちに煩悶する人間はみんな負け組だ。インテリぶっても考え事をするやつはみんな負け組だ。何も考えず、へらへらと笑って単純に生きていける人間、鈍感で呑気な人間にはどうやっても敵わない。そういう人たちこそ勝ち組で、幸せに生きていける。わたしのようなどうしようもない負け組はそれを悔しがって愚鈍だとか馬鹿だとか考えなしだとかいって人を罵り、考えることが良いことのようにして糞尿のような感情を撒き散らして社会に適応できず惨めに生きる。生まれついてしまった以上それしかできないためにそうして生きる。
わたしにできることはいつまでもいつまでも涙と糞尿を垂れ流すことだけだ。
かなしい。かなしい。


生理の最中っていつもこんなことばかり考えてしまう。