本の色が焼けてゆくだけの時間

古本を主に取り扱う店でアルバイトしているので、持ち込まれた本を査定し買い取る仕事をすることがある。
買い取るための基準はマニュアル化されているので、心を痛めながら本を処分することも多い。
高価で買い取るのは、色焼けもなく、破れも汚れもない新品同様の本だ。
しかしわたしは、そういった本よりも、段ボールにつめられ処分されてしまわれるような本に、いつも心奪われる。
古い神社の石段や手すりがやわらかく削れているのを見て、その時間と、そこを通過した人々のことを思うのと同じように、古びた本の傷みに、その持ち主の生活や本の経てきた時間のことを思う。
たとえば、手垢のつき方や角のすれ、紙のこなれた感じからは、持ち主は何度この本を繰り返して読んだのだろう、ということが思われる。
色の焼け方からは、どんな場所に置かれて、どのように日が当たっていたか、どれだけの時間を経てきたのか、ということが想像させられる。
大切に読まれている本は、古びていたり、破れ、色焼けしていても、大切に扱われてきたことがわかるし、値段のシールがねとねととへばりついて、何度も古本屋に売られた形跡のある本は、商品として並べられる時に乱暴に扱われているからか、どことなく疲弊している。
品物を売っていく人の生活も、その品物から想像される。
たとえば、女性向けの耽美小説や漫画を多量に持ち込んでくる、中年女性の生活。(傾向として、ライトノベルや女性向けの本は大切に読まれていて綺麗である。)
煙草のヤニの染み込んだコンビニコミックを売ってゆく上下ジャージのギャル男風の若い男性の生活。
手垢だらけでよれよれになったてんとう虫コミックを持ち込む女性の、その息子の生活。
単に、新品同様であるということに価値を見出すのではなく、そういった部分に値段をつける仕事ができればといつも思う。
心を痛めながらその生活や時間を捨ててゆく。だから、働いているとすりきれる感じがして、やりきれない。
せめてその半分でも拾い上げたいと、いつも思う。
神保町にあるような、とまではゆかなくても、せめて下町にあるような古本屋で働きたい。傷んでいる本にも価値を見出してきちんと値段をつけるところで。
最近は、もうすこしそれが進んで、自分で古本屋を経営したい、とさえ思う。
とりあえずいまは、黄色い古書店の良心になりたい。