「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」岡崎京子

問題あるといやなので、のちのち消すかもしれません、
まあ、ここに書いてあることはすべてフィクション、でたらめということになっているので、

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね


『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』岡崎京子

 この単行本は、元来漫画家である岡崎京子の書いた物語を集めた唯一のものだ。
 収められているいくつかの短い物語の中には、二、三の恋愛にまつわるものがあるが、それらは一般に言われているような恋や愛の物語、と考えるにはあまりにも殺伐としていて、絶望的な予感を孕み、残酷だ。『pink』(マガジンハウス)という漫画のあとがきの中で、岡崎京子は実際こう書いている。「“愛”というのは通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。」
 単行本の題名ともなっている物語「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」には、こんな一文がある。「あなたのこと大好きだけど、あなたの顔、忘れちゃってるの。そして、そのことで少しほっとしている自分に気がついたのよ。」こうした感覚は恋愛の中でしばしばある。この物語では、ひどく忘れっぽいある恋人たち。彼らは互いの忘れっぽさによって出会う。彼らは決して心を入り混じらせることも寄り添わせることもかなわない。そしてすべての恋人たちも彼らとそう変わりない。
 このひとの作品全体に流れる、絶望というにはあまりに淡々とし過ぎていて無味乾燥の感覚。その感覚に覚えのある人は、きっとすこしつかれている。目を閉じて夢を見続けていたいけれど、それが虚構だということを確かに知ってしまっている虚無感。それはどんなに素敵な虚構を見つけても付きまとう。そして、それでも夢を見続けたいというのならば、わたしたちは知らん振りをしてまた次の甘やかな嘘を探しに行かなければいけない。このひとの作品を読んでいると、読者はしばしばその途方に暮れるような感覚の中に放り出されてしまう。岡崎京子はそれを意図的にしているのかもしれない。わたしたちはここでは消費をしつづけすり減ってゆくことか、良くても虚構に甘んじ続けることしか出来はしないのだ。多分。
 岡崎京子は96年の交通事故以来現在も療養生活中で、彼女の創作活動への復帰というのが今後あるのかはわからない。けれどわたしたちは今、そしてこれから、よりいっそう彼女の言葉に共感し学ぶところがあるだろう、皆さんがいつまでもきれいなものだけをみていたい、というならば別ではあるけれど。

締切日と「800字程度」の制約の中での限界。感覚的すぎるし言葉の及んでいない部分もたくさんある。
けれど久しぶりに頭を悩ませながら推敲して書いた文章なので、ある程度は完成していると思う。試行錯誤の痕跡を残しつつ。